誰でも思いつくことだし、いくつものサイトに書かれているだろうことだけど、今のネットって本当に閉鎖的ですよね。ネット人口が増え、ネットの範囲が広がるのに反比例しているような気がする。閉鎖の極北がやっぱりmixiとかの閉鎖的SNSかな、と。自由が際限のないものになっていくと、自由は責任を伴うようになってしまうため、かえって自由が重荷になる。だから人間は自らの自由を制限することで責任から逃げようとする。こんな趣旨のことをいった人がいたと思うんですけど、誰だったかな。フロムかサルトルかあたりだったと思うんだけど、思い出せない。私はあまり教養のない人間なので、「○○いうところの××に通ずるものがある」などと原典をさらりと引用などできないのさ。ともかく、そのフロムだかサルトルだかの説に通ずるものがあるよね、ってお話。
リンク先のLOVER'S NESTさんがいつの間にかサイト消滅していました。以前から更新していない状態が続いていたものの、いきなりサイトがなくなっていると何だかショック。これでリンクページから張られている外部リンクはたったの三件(しかもうち二件は小説検索エンジン)になってしまった。もはやリンクページの存在意義自体ほとんどないんじゃないだろうか、という気にすらなってくる。いっそ取っ払ってしまうのも手なのかなあ。もう時代はブログやmixiで、相互リンクやら何やらの時代は終わってしまったわけだし。さみしいなあ。
まあ件名ほど悲惨な事態でもないんだけど、大差ないアクセス数ですよびびび文庫。しかし所属しているサークルのブログから先輩の手によりリンクを張られてしまって以降、アクセス数がある程度上昇して、慣れない大量訪問者に困惑を隠しきれないところ。
アニメ「攻殻機動隊」の第6話で、少佐が課長とエレベータ内で会話をするシーンがある。そのエレベータの内壁なのだけど、大変メタリックで、金属板を幾何学的に継ぎ接ぎしたような外観になっている。そういう継ぎ接ぎメタリックの表現技法は近未来SF全般に広がっているようで、よくお目にかかる。不思議なことに、あれを見て私たちは「近未来だあ」と感じるようになっているようだ。でもどうなんだろう。
ようやくサイトのリニューアル作業がほぼ完了。あとは細かなチェックとかをして、三時間後くらいにはアップできるんじゃないかな、と。終わったら全力でテスト勉強とかありえん。結果無価値とか行為無価値とかわけ分からん。どっちでもええがな。
何でヤンデレが流行しているのだろう。まあこれは前から考えてはいたことで、今の所の自分なりの結論としては、だ。ヤンデレは自らの精神を破壊し、時には何らかの外的存在を攻撃してでも相手に愛情を表現しているわけです。それは相手から見れば「そこまでして俺のことを愛してくれているのか」となる。「愛する」=「存在を認める」と考えれば、ヤンデレとは多大な犠牲を払ってでも自分の存在を肯定してくれる存在だ。言い換えれば、それだけはっきりと自己の輪廓を浮き彫りにしてくれるわけで。そこに無意識のうちに惹かれている人が多いんじゃないかなあ、とね。自己の喪失感に悩んでいる人たちが、自己の確認、自己の肯定を求めてヤンデレに走ってる。――まあ、十中八九考えすぎでしょうね。
どこまでがヤンデレなんだろう。突拍子もない疑問だけど、とりあえず書いてみる。昨年の学祭で漫研が「ヤンデレカレンダー」なるものを展示していて、まあ予想通りカレンダーの各月ごとにヤンデレでならしたキャラクターの絵があしらわれている代物なのだけど、なぜかその中に朝倉涼子の絵が。朝倉はヤンデレじゃないだろと突っ込まずにはいられなかったわけだけど、じゃあどこまでがヤンデレなのか。というかヤンデレってなんなんだ。
FLASHムービー等が貼り付けられる掲示板で最近、「ニコニコで見たな」という類のコメントがついているのが目立つ。まあ、それはいいんだけど、係り結びのような「FLASH版があったのか」という反応を見る度に、何だかなあとなる。ニコニコのもたらしたものは大きいね。一定以上の影響を与えるような歴史的事件は、どうもそれ以前の歴史を抹消するらしい。影に隠れるんだろうな。
W3Cつながりで軽く思ったんだけど、Web2.0とやらとWeb標準って矛盾してる気がする。Web2.0って要するに閲覧者からも情報の発信が可能って考え方で、Web標準はHTMLの思想をしっかり理解したWeb運用をってことだと理解してる。となると、Web標準(特にXHTML1.1勧告とかその辺の勧告案遵守性)を守ろうとすると、情報発信者にはそれなりの知識が必要になってくる。すると情報発信の萎縮につながる(めんどくさい)。Web2.0に逆行。まあ、Web2.0という考えがそもそもあれなわけで、そりゃ対立もするとは思うけど。
今サイトのリニューアル作業を進めている。リニューアルと言っても見た目にさしたる変化はなく、ほとんどがコーディングの見直しだ。ほとんど論理のみに依拠したコーディングに変換中。もしかしたら自分は軽くW3C信者かもしれない。まあ、軽くだけど。
第7段から第9段までを俯瞰すると、両文字に「見慣れてはいるが異質」(第7段から第8段)、「未開にして巨大な恐怖国家」(第9段)という二つのイメージが共通していることに気づく。思うに、この二つのイメージこそサイバーパンクにおける重要なファクターなのではないだろうか。言ってしまえば、サイバーパンクの本質はラッカーが言ったような新しさにあるのではなく、むしろ逆、どこか前時代的な不安感にあるのではないか、というのが今のところの私の考えだ。多分。
歴史的に見て両文化とも独裁・閉鎖国家の傾向が強い。現在でもロシア聯邦は極めて強権的な閉鎖的国家である(スパイ事件などを想起すればわかりやすいか)し、中華人民共和国などは言うまでもなく完全な閉鎖独裁国家といえよう。また、両文化とも、進歩主義的な観点を採用するとすれば、政治的にも経済的にも、あるいは技術的にも後進的な国家であろう。また、両地域ともに共産主義の一大拠点だった事実にも注目したい。
繁体字、簡体字の特徴は日本人からすれば、ある程度親しみがある反面、まったく異質な要素をも含む、と言う点が挙げられる。たとえば「伝」という字ひとつとっても、繁体字では「傳」、簡体字では「传」だ。繁体字との差異は国語改革という「劃期的な」発明の賜物であるが、それにしても簡体字は異質という他ない。また、文章のすべてが漢字のみで構成されているというのも大きな特徴だ。
第6段について。サイバーパンクの土台となるコンピュータ/インターネット技術は、そのほとんどが英語文化圏で開発され、内部でお目にかかる文字もラテン文字基本の26文字だ。またコンピュータ以外でも、ラテン文字は比較的日本人になじみの深いものであろう。もちろんドイツやフランス等では、合字やダイアクリティカルマークなども使われるため、日本人にとっては見慣れないものとなりうるが、それでも基本26字の面影は残っているため、まったく違った印象、とまではいかない。対してロシアを中心に使われるキリル文字は、同じヨーロッパ系の文字であるにもかかわらず、10余りの字を除いて他に類を見ない、まったく異質のものという印象を受けやすい。ラテン文字と違い、どう発音するのか見当すらつかないことも多い。
いかがわしくきな臭いことを
新潟県のマクドナルドで販売されたフィレオフィッシュの一つから、寄生虫の死骸が発見されたという。この寄生虫、テラノーバといって、フィレオフィッシュの材料であるスケトウダラにはごく普通に存在しているらしい。この製品にあたった人は確かにお気の毒だが、分からないのはこのことでマクドナルドを非難する人たちだ。
議論の折に受けた反論として、「人はいずれ死ぬ」というものがあった。なるほどその通りで、死ぬということは「自分」という存在が消滅することと同値だ。となれば死ぬのが分かっているということは、いずれ消滅するような不確かな存在に自らが依拠していることにつながる。対して抽象概念である「女」や「美」などは概念ゆえ消滅しないのだから、そちらが愛の対象となる方がより望ましいようにも思える。
議論の相手の愛するものは「女」だった。具体的人物ではなく、抽象概念。その他議論に参加した人の意見には、「美しさ」「故郷」などがあった。酒の席での議論ということもあり、「女」という解答が出た直後に笑いが起きたが、冷静になってみれば、一笑に付すべき解答ではない。抽象概念である「女」だからこそだ。
あるアーティスト(甲)の悪事が露見したとき、その熱狂的なファンの一部(乙)は甲を擁護し続けた。思うに乙の自己存在のよりどころは甲にあったのではないか。だから甲が非難されるイコール乙自身が非難される、という構図に(乙としては)なるため、自己弁護の延長として甲をかばった、とは考えられないか。第1段における「最も愛するもの」が他者にあったときに考えられる影響として。
080123の粒日記で書いたことから始めてみる。一般論で見たとき「自分」は「最も愛するもの」の対象になり得るか。なる(甲)と思う。ならないと自分の核が他者に依存していることになる(乙)。その他者がもし失われたら、自我の崩壊につながるのでは? もっとも、乙の状態になっている人は多いので、甲は理想型でしかないが。