本屋に行って趣味の本をいろいろと見てきた。京都市電とか未成線とか。困ったことに、読んでいるうちに「ああ、路面電車とかすごくレトロなガジェットだよな。ぜひ水東京に入れたい」とか思ってしまって、また設定やプロットの練り直しですよ。楽しいし、もう慣れたけど。ちなみに水東京というのは、構想だけはいっちょ前に五年以上かけている長篇小説(未成)の作品名『水東京ニライカナイ』のことです。大学生になったら暇にあかせて書き上げられるだろうなどと思っていたら、なぜか法学部ってクソ忙しいですね。みんながみんなロースクールに行きたいとか思ってたら大間違いですよ。
そんなわけでほとんど書き進んでいないわけだけれど、蕎麦さんはどちらかというと追い詰められれば追い詰められるほどできる子だし、設定とか早めに公開しておいた方がいいような大人の事情とかもあり、冒頭部分だけでも公開しておく。といっても原稿用紙たったの10枚分くらいの少量だけど。あと、さすがに小説のコンテンツとして「近日公開」などと銘打っておきながらずっと放置、なんてダメ小説サイトの見本みたいなことはさすがにしたくないので、このページでのみひっそり公開。次段落より。
黄昏時の新宿から見る東京湾は、昨日見た上野アルコの錆びた鉄板色。
1
十八時間前、雨。芝浦製作所製のネオンが鈍い水面を力無く照らす。三菱。日曹。富士。住友。耳に静かで目に騒がしい、資本主義のシュプレヒコール。それを塗り潰して、東京海上交通のレイル群。木造の橋桁を伴って水面上に何本もの孤を描く。入り組んだレイルをかい潜るようにして海上高架道路と高圧電線が思い思いに延びている。水面には無秩序に組まれた海上聚落。時折海上を走る列車は、さながら巣の上を器用に歩く蜘蛛のようだった。
東京海上交通十二號路――通称、クモ電中央線。背広や袴や外套が群れをなして、新宿発上野港行の三等客車になだれ込む。けたたましい発車ベルすら、ざわめきの前にはかき消される。
ある座席には、携帯無電で短信 をやり取りする袴の学生。ある座席には、駅売りの「有明新報」を広げる外套の紳士。記事にいわく、「對英攻撃も總仕上げ−開戰一周年に見る獨逸猛攻」またいわく、「東京還都に凍結宣言下る−姫路政府十七年越しの決斷」――そう、もう十七年も経ったのだ。向かいの有明新報には「元化十五年九月一日」と印字されている。となりの初老が懐中時計を取り出す。見れば、ちょうど正午の二分前。クモ電は水東京の真っ只中。周りに何も見えない海の上、ひときわ長い警笛が鳴らされる。車内の人間は皆、胸に手をあてうつむいていた。外套は帽子を、袴姿は専門書を、胸にあてて目を閉じていた。湿った車輪のきしむ音が、初めてうるさかった。
百万人が一瞬にして消えるイリュージョン。その種は相模沖のマグニチュード7.9と、鎌倉上空の最大風速68m/s。火災と津波と土石流の三重奏で東京市南部は水の中、という寸法だ。お役所から何まですべて沈んだばかりに、記録の一切が海の底、十年をとうに過ぎても被害の実態すら分からない。死者百万人とて、少なくともの百万人だ。
――まもなく、海上本郷、海上本郷――
車内放送が響く。かつての皇国の脳頭蓋も、今や単なる海上聚落の一。沈没を免れた高層建造物を核に、水上浮家の接続網が広がっている。水面に漂う鎖状高分子。浮家はどれもこれも竹筏や小舟の上に結わえ付けられただけの代物で、少し大きな波でも来れば、浮家同士がぶつかり合って聚落は潰滅する。そうなれば住むのは社会の底辺。日本の下層社会の現状だ。そういう聚落が、この水東京にはごまんとある。進路左側の窓を見ると、薄汚い労働者が四、五人、客車に乗り込もうとプラットホームに列をなしていた。振り向いた先、右側の窓にあるのは旧宮城 。何と言っても神聖ニシテ侵スヘカラス、あそこだけは水没を免れたらしい。あまりの被害の甚大さに、震災翌日には姫路遷都を叡断、即日行幸したそうだが、未だにあのあたりは侵入禁止区域だ。不自然に蜘蛛の巣の網から漏れながら、主なき小島がぽつり、水東京にたたずんでいた。
すべての客を呑み込み終えて、扉が音を立てて閉まる。一度がくんと車輌が揺れて、後はなめらかな加速。車窓の外では幾本もの蜘蛛の糸が収斂へと向かいつつある。糸の束が太くなる度、小気味よい音を立てて車体が跳ねる。束が吸い込まれるように向かう先には、一面に広がる港湾施設。浅瀬のため小型船ばかりがびっしりと砂鉄のよう。いつの間にか雨は上がっていて、幾分澄んだ空気のためか一隻一隻までくっきりと見て取れる。旧不忍池にさしかかったあたりでゆったりと制動がかかり始め、橋梁が終わりを告げて石造りの路盤に変わる。ややあって停車。
――上野港、上野港。お忘れ物のないよう――
低温部の削り取られた、すかすかな音が響く。扉が開くと同時に、大量の乗客がプラットホームにあふれ出る。十二號路・甲線の終着駅、上野港駅はいつもこんな感じだ。プラットホームが大衆に沈む。それは蜘蛛が巣を渡りきる度に吐き出される獲物、コンベヤーに乗ったT型フォード。物理的には密の極みでも、論理の物差しで見ればどうにもならない疎。巨大な零。何も言わず何も聞かず、おそらく何も考えず、吐き出されてそのままアルコロジーに呑み込まれる。資本を求めて動いたこの極限を、彼女はどう思っているのか――プラットホーム西端の誰も足を運ばないようなあたり、物理的疎の空間に、弁財天が忘れ去られたように鎮座していた。上野は街自体が赤茶けた金属板で覆われた、巨大なアルコロジー構造物。完全環境都市、環境建築都市、どうにも訳語が定まらないまま安易な横文字名が採用されて、国粋主義者の不興を買っている。焼け野原に鋼板や鉄骨や銀製パイプを張り巡らせ、それが何層にも重なって複雑怪奇な造形美を生み出す。まるで街全体が巨大な、それでいて秩序の見られない枠組み足場、廃棄され錆び付いた工場設備の様相だ。電力から食糧まで、アルコロジー内での完全な自給自足を目指して作られたらしく、最下層の中心には巨大な発電用ボイラーが備え付けられ、その周りは発電時の熱を利用した宏大な集積農場になっている。とはいえそれらが効率的に動作していたのは十年以上も前の話。稼働開始の四年後には何から何まで錆び付いてしまった。銀色を美しく輝かせていた鋼板は、海風にやられもはや見るに堪えない赤茶色。発電施設は故障が相次ぎ、地下集積農場は今や大量の浮浪者がうごめく、文字通りの貧民窟になり下がっている。
上野アルコを包むように埠頭のフラクタルが無辺の広がりを見せている。上野港。震災直後、入江となり果てた旧不忍池沿岸に救援物資輸送用の港が仮設されたのが発端で、後は無限の拡張。皇国有数の貿易港といえば聞こえはいいが、港勢の半分は闇が支えている。日に五百隻以上の小船が行き来するこの港には、まっとうなものからやばいブツまで、金になりそうなものは何でも流れてくる。
埠頭の一角。水揚げされた貨物が無造作に積まれ、あちらこちらに山となっている。その一つにもたれて一服燻らせながら、立体写真 を手慰みにしている骨董屋の姿があった。立写 は手のひらに収まるほどの大十二面体。どの方向から眺めても五芒星が浮き上がり、目を捉えて放さない。廻転させ、上下させ、目に入る角度を変えては、微妙な表情の変化に溺れる。
「気に入ってくれた?」
背後の少女の声に、薄めの恍惚感を保ちながらも、老骨董商は客人への微笑みを上塗りしてゆっくりと振り向く。見たところ十六、七の少女は、大きなヘッドフォンを頭に着け、首に掛けた早川製の小型電子端末にコードを接続している。栗色がかったボブカットが金属質のヘッドバンドに押さえ付けられ、海辺の風に小さくなびいている。
老骨董商が少女と目を合わせると、少女は目を閉じることなく優雅な笑みを作ってみせる。老爺も帽子に手をかけながら目を細め、軽くお辞儀をおどけて返す。
「手に入れるの苦労したんだから」
少女は老骨董商の隣にもたれ、どこを見るでもなく空を見上げる。大型の復葉機が仙臺方面へ飛び立っていくのが見えた。
「ああ、最高の報奨だ。一度だけ警察で本物を見たが……あの輝きは真似できんよ。これは、紛れもない」
「あたしが偽物掴むわけある?」
老人は眉をくいと持ち上げると、にやりと笑んで、
「ごもっとも」
復葉機のけたたましいプロペラ音は遠ざかり薄れていくが、それに塗り重ねるように次々と発動機の音が行き来する。上野の空は退屈しない。立川飛行場がパンクしてから、仮設の飛行場が市街地を囲むように大量発生した。それらの等距離点に位置する上野の空に機影が見えない時などない。そして極めつきがアルコロジーだ。日に二度はアルコ中腹にある鋼鉄の鎧戸が巻き上がり、奥深くへと続く滑走路があらわになる――今がまさにその時間で、西の空から空気をつんざく轟音を伴って、直射日光と照り返しで目をつぶさんばかりに輝く銀の巨体が港を影で覆う。一帯に突風が吹き荒れるが、わずかに二、三の箇所で、不慣れな新参仲仕の担当する軽貨物の山が無残に飛び散ったくらいで、ほとんどの仲仕は慣れた様子で貨物の防護を済ませている。銀翼は器用に高度を合わせ、格納庫のような横穴に滑り込んでいく。
「ああうるさい。せっかくいい曲なのに何も聞こえやしない」
少女はヘッドホンを両耳で押さえながら、閉じてゆく鎧戸を睨む。老人も同じ方を見やり、
「あの穴も相当ガタがきていると聞く。今になくなるよ」
「だといいけど……で」
少女は首元の端末の操作盤に左手を向かわせ、曲の再生を一時停止する。同時に右手で切手大の防護カバーをはずす。外部装置を接続する差込穴を指さすと、それを見て老人がポケットから小型記憶媒体を取り出す。蓋をはずし、接続。少女はうなじのあたりの機構を弄り、半透明のシートを引き出す。シートは細いコードで端末と繋がっていて、少女が目元にやると多岐にわたる情報が表示された。その中から老人の記憶媒体についての情報を選び出す。鍵型の図像 を持つ、実行素体 。思わず笑みがこぼれる。
「ありがと、おじちゃん」
情報の複製を終えると、記憶媒体を取り外す。老骨董商は口角をくいと上げると、帽子を深くかぶり直した。
上野港。横濱・神戸・廣島と並ぶ四大貿易港の一角。流れ着くのは物だけではない。情報も立派な取扱貨物。骨董屋は情報の対価、大十二面体の台座にあるスイッチを切る。低周波を放って、立体写真 は姿を消した。