前段で書いたことについて。著名なヤンデレといえば桂言葉、芙蓉楓、園崎詩音の三人が挙がるだろうか。この中で言葉と詩音については前段で言ったヤンデレ像をほぼそのまま沿っていると思うのだが、あとの二人はどうも微妙だね、と書いたあとで思ったり。楓は途中までは健気に主人公のためを思って行動するけど、最後の最後でとる行動(時雨亜沙に出てけとかどなっちゃう)はどちらかというと「自分の利益」を目指したものだよね、と。でも楓がヤンデレじゃないとまでは言えないだろう。ありゃヤンデレだ。ヤンデレ谷のヤンデレぬし様だ。
友人がリアルにヤンデレな人に悩まされているらしい。彼女はそのヤンデレさんについて、次のような特徴を挙げていた。「特殊な趣味を押し付ける、相手の愛情を確かめる為に困らせたり心配させる、悲劇の人っぽい振る舞いをする
」など。友人にしつこくせまってくるので困っているのだとか。でもこれは、友人には悪いけど、ヤンデレじゃない気がする。
何でヤンデレが流行しているのだろう。まあこれは前から考えてはいたことで、今の所の自分なりの結論としては、だ。ヤンデレは自らの精神を破壊し、時には何らかの外的存在を攻撃してでも相手に愛情を表現しているわけです。それは相手から見れば「そこまでして俺のことを愛してくれているのか」となる。「愛する」=「存在を認める」と考えれば、ヤンデレとは多大な犠牲を払ってでも自分の存在を肯定してくれる存在だ。言い換えれば、それだけはっきりと自己の輪廓を浮き彫りにしてくれるわけで。そこに無意識のうちに惹かれている人が多いんじゃないかなあ、とね。自己の喪失感に悩んでいる人たちが、自己の確認、自己の肯定を求めてヤンデレに走ってる。――まあ、十中八九考えすぎでしょうね。
どこまでがヤンデレなんだろう。突拍子もない疑問だけど、とりあえず書いてみる。昨年の学祭で漫研が「ヤンデレカレンダー」なるものを展示していて、まあ予想通りカレンダーの各月ごとにヤンデレでならしたキャラクターの絵があしらわれている代物なのだけど、なぜかその中に朝倉涼子の絵が。朝倉はヤンデレじゃないだろと突っ込まずにはいられなかったわけだけど、じゃあどこまでがヤンデレなのか。というかヤンデレってなんなんだ。