第1段の「最も愛するもの」とは、結局の正体は宗教なのではないだろうか。宗教を「心のよりどころ」と捉えると、いわゆる宗教を持たない我々が何をよりどころにして生きているのか、すなわち我々の持つ宗教は何か、という問いに転化できるように思った。そういった意味で、無宗教は存在しない、あるいはその考え自体宗教性を持っている、とも言える。
何でヤンデレが流行しているのだろう。まあこれは前から考えてはいたことで、今の所の自分なりの結論としては、だ。ヤンデレは自らの精神を破壊し、時には何らかの外的存在を攻撃してでも相手に愛情を表現しているわけです。それは相手から見れば「そこまでして俺のことを愛してくれているのか」となる。「愛する」=「存在を認める」と考えれば、ヤンデレとは多大な犠牲を払ってでも自分の存在を肯定してくれる存在だ。言い換えれば、それだけはっきりと自己の輪廓を浮き彫りにしてくれるわけで。そこに無意識のうちに惹かれている人が多いんじゃないかなあ、とね。自己の喪失感に悩んでいる人たちが、自己の確認、自己の肯定を求めてヤンデレに走ってる。――まあ、十中八九考えすぎでしょうね。
議論の折に受けた反論として、「人はいずれ死ぬ」というものがあった。なるほどその通りで、死ぬということは「自分」という存在が消滅することと同値だ。となれば死ぬのが分かっているということは、いずれ消滅するような不確かな存在に自らが依拠していることにつながる。対して抽象概念である「女」や「美」などは概念ゆえ消滅しないのだから、そちらが愛の対象となる方がより望ましいようにも思える。
議論の相手の愛するものは「女」だった。具体的人物ではなく、抽象概念。その他議論に参加した人の意見には、「美しさ」「故郷」などがあった。酒の席での議論ということもあり、「女」という解答が出た直後に笑いが起きたが、冷静になってみれば、一笑に付すべき解答ではない。抽象概念である「女」だからこそだ。
あるアーティスト(甲)の悪事が露見したとき、その熱狂的なファンの一部(乙)は甲を擁護し続けた。思うに乙の自己存在のよりどころは甲にあったのではないか。だから甲が非難されるイコール乙自身が非難される、という構図に(乙としては)なるため、自己弁護の延長として甲をかばった、とは考えられないか。第1段における「最も愛するもの」が他者にあったときに考えられる影響として。
080123の粒日記で書いたことから始めてみる。一般論で見たとき「自分」は「最も愛するもの」の対象になり得るか。なる(甲)と思う。ならないと自分の核が他者に依存していることになる(乙)。その他者がもし失われたら、自我の崩壊につながるのでは? もっとも、乙の状態になっている人は多いので、甲は理想型でしかないが。