水曜日の五・六時間目は、図画工作の時間だった。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴ると、みんな一斉に「絵の具セット」を持って、図工室へと駆け込んでいく。図工室のドアを開けた瞬間に広がる、木くずや絵の具やニスなんかの混ざり合ったような茶色いにおい。どこか懐かしい感じがして、好きだった。そのにおいをかぐために、僕はいつも一番乗りで図工室の前に立っていた。
もうそろそろ、夏が来る。図工室前の窓から見える森は青々と茂り、葉の一枚一枚がみずみずしく照り輝いている。いつ頃からかせみの声もするようになった。夏はもう、そこまで来ている。
先生が図工室の鍵を開け、ドアを開ける。みんなはわっと室内に入っていくのだが、僕は違った。あの懐かしいにおいを体いっぱいに吸い込んで、満足げにはき出す。思わず笑みがこぼれる。そして横を向くと、そこにはいつも彼がいた。
みんなから「たっくん」と呼ばれている男の子。口数は少なく、大声で騒いだりすることもほとんどない。でも、表情はものすごく豊かな子だった。そのたっくんは、僕が図工室のにおいをかいでいるといつも、その横で顔をしわくちゃにして笑っている。それを見ているとなんだかこちらまでうれしくなってきて、いつも二人でにこにこしながら図工室に入っていくのだった。
たっくんは絵がうまかった。特に人の顔を描くのが得意なようで、よくクラスのみんなの似顔絵を描いていた。小学生らしい、線の少ないデフォルメされた絵。それでもたっくんの似顔絵は驚くほどよく似ていた。似顔絵を描いているたっくんのところへ行くと、決まって「えへへ」とはにかみながら、その絵を見せてくれる。その表情や仕草がまるで子猿みたいだということを彼自身も知っていたのだろうか、彼の描く自画像は、小さな猿がにこにこと笑っているものだった。
やがてチャイムが鳴り、先生が生徒一人一人に紙粘土を配っていく。テーマは「みんなのたからもの」。なにを作ってもいい。なにを使ってもいい。先生から一通りの説明を受けると、みんなのびのびと作業を始めた。一生懸命に紙粘土をこねる子、持ってきたビー玉を熱心に色分けする子、いろいろな子のたからものの始まりがそこにはあった。僕も紙粘土を小さくちぎり、作業を始めようとした。
――ベコッ。
突然の鈍い金属音。みんなが音の出た方を振り向く。図工室にいた誰もがその音に驚いていたのだが、中でも僕にはその音がひときわ大きく聞こえていた。僕の隣にいるのは、たっくん。右手に金づちを持ってなにかを叩き付けていた。乾いた音はまだやまない。なにかを叩いている。なにを。……空き缶?
たっくんが空き缶を叩いているのを見ても、最初は、空き缶をなにかに使うのかな、くらいしかに思っていなかった。もともと図工の時間なのだ。空き缶があっても、金づちがあっても、そうおかしなことではない。そう思っていた。最初は。
ところが五分経っても、十分経っても、音は一向にやまなかった。休み時間になってさえ、たっくんは空き缶を一心不乱に叩き続けている。その顔にはあのかわいらしい笑みもなく、まるでなにかとても悪いものを振り払おうとするかのように、ただただ叩き続けている。さすがにおかしいと思ったのか、先生までたっくんのことを不安げに見ていた。いつものたっくんなら、白いものと鉛筆さえあれば色んな絵で白を楽しげに埋めていくのに、その日の彼はどこか悲しげにすら見える。彼は結局ほかになにもすることなく、ただひたすらに空き缶を叩くだけでその日の授業を終えてしまった。
その日から、彼はみんなからなんとなく避けられるようになった。普段の彼がおかしいわけじゃない。ただあの日あの時間のあの行動が、僕らにはなんとなく奇妙に思えただけなのだ。でもそれは僕らにとって、彼を避ける充分過ぎるほどの動機となった。
次の日、僕は彼におはようを言えなかった。みんなそうだったし、彼のおはようにもなにも返せなかった。そこにいたのはいつもの彼だったのに。なぜか言葉が出ず、そればかりか彼の方を見ることすらできなかった。自分でもそれに気付いて、逃げ出してしまいたい気持ちになった。彼はいつもと同じように鞄から自由帳を取り出し、絵を描き始める。いつもなら、なにを描いているの、と誰かしらが近寄ってくるはずだ。僕も絵を見に行くだろう。でもその日は、たった一人で絵を描いていた。自分でも避けられていることに薄々感づいていたのか、その日の彼はあまり筆が進まないようだった。
そうして同じような状況が何日か続き、ある日、彼は絵を描くことをやめた。鉛筆を置いてほお杖をつき、どこでもない一点をただなんとなく見つめている。普段の彼からは見ることのできない、あまりにつまらなさそうで、さみしそうな顔。僕はその顔を見て、いきなり重苦しい孤独に襲われ、まるで体が宙に投げ出されたかのような感覚を受けた。自分の周りに誰もいない、なにもないような気がする。ひょっとすると、彼もそうなのだろうか。そしてもしそうなら、それは僕らのせいなのだろうか。
そんなことを考えると、後悔や絶望は心の中でさらに膨らんで、ついにはあまりに大きな怪獣となって、あまりに小さな僕は、それに踏み潰されそうになる。すべてが失くなりそうな気分になる。耐えられない。堪えられない。僕は彼になにか言葉をかけようとして、彼の方を見た。でも、すぐに目を背ける。よく考えたら、今更そんな勇気など残っているはずもなかったのだ。
次の日、水曜日、彼は学校に来なかった。先生はただの風邪だと説明したが、それは嘘だと思う。その日のみんなはまるで火が消えたかのように静かで、教室はどんよりと曇っている。やがて図工の時間になったが、僕はあの懐かしいにおいを吸い込むことなく図工室に入った。
僕の隣には誰もいない。その席はぽっかりとした空間でふさがっている。誰もいないのが息苦しい。なにもないのが重苦しい。その日僕は、図工の時間を終始うつむいたままで、なにもせずに過ごした。というより、なにもできなかったのかもしれない。
それから数週間経ったが、その間に一度も僕らは彼の姿を見ることがなかった。それどころか僕らは彼のことを忘れかけてすらいた。休み時間などもいつものように笑って過ごすようになったし、彼の机を見てもなんとも思わないようになってしまった。ただ、図工の時間だけは違った。茶色いにおいのする中で、ひたすら静かな時間が流れる。みんないやに黙りこくったままだった。あのにぎやか過ぎる図工室は、もうどこかへ行ってしまったのか。みんなのふざける声も聞こえない。先生の怒る声も聞こえない。――彼の笑う声も聞こえない。
みんな黙々と、ただ黙々と作業を続けていた。今自分が作っているのは、本当に自分にとってたからものなのだろうか。そんなことさえ分からなくなってくる。ただひたすら、今日の提出期限に間に合わせるためだけに、たからもののようなものを作っていた。
チャイムが鳴った。誰かが深いため息をつく。張り詰めていた緊張が一度にとけたからなのか、それとも作品の完成が間に合わなかったからなのか、それは分からないが、とにかく辛い時間からようやく解放された。みんな列を作って、先生の元へ作品を提出しに行く。僕も作品を持って列に加わり、図工室から逃げ出す機会を待った。
なんとなく気乗りがしなかった。このまま家に逃げ帰りたかった。この十字路を左に曲がってしまえば家に着く。でも右に曲がらないといけなかった。帰りの会で、連絡帳を彼の家に届けるよう先生に言われたのだ。本来ならもっと近くに住んでいる子に頼むのだが、あいにくその子はその日学校を休んでいた。それで家が二番目に近い僕が、それを届けることになったのだ。右に行けば彼の家。足がすくんだ。彼の家に行きたくなく、彼の親に会いたくなく、そして彼に会いたくなかった。自分でもよく分からない、得体の知れない不安。それが僕の心を襲い、足踏みをさせていた。
何度となく家へと逃げ帰りそうになりながらも、どうにか彼の家にたどりついた。門の前でしばらくうろうろして、ようやくチャイムに手をのばす。できるなら、留守であってほしかった。そうすれば、ポストに連絡帳を放り込むだけで、ことは済むのだ。
しばらく沈黙が続いた。耳障りなせみの声だけが、辺りの空気を生暖かく歪ませている。僕はちょっとした期待を抱きながら、もう一度チャイムに触れようとした。そのときだった。
インターホンから声が聞こえる。彼のお母さんの声だった。
「連絡帳を届けに来ました」
仕方なしにそれだけ言うと、インターホンごしの声は優しそうに返事をする。
「ちょっと待っててね、今すぐ行くから」
僕は、はいとしか言えず、それっきり固まってしまった。こめかみの辺りの血管はどくどくと脈打っているし、もしかしたら、声も震えていたかもしれない。僕は泣き出しそうになりながら、お母さんの来るのを待った。
やがて、金属のきしむような音とともにドアが開く。あとはお母さんに連絡帳を渡して帰るだけだ。そう思うと先ほどまでの不安も幾分か薄れ、なんだか気が軽くなった。さっさと済まして帰ってしまおう。そう思いながらドアの近くまで歩いて、そして息を飲んだ。
彼だ。彼がいる。いつものあのうれしそうな顔で、ドアからひょっこりと顔を出していた。僕がなにも言えないでいると、
「ちょっと待ってて」
そう言って彼は家の中へ入っていった。
また気分の悪い沈黙が続く。僕はにじみでる汗をTシャツの袖口で拭いながら、言葉通りに彼を待った。彼が戻ってくるまでの時間が、とてつもなく長いものに思えた。
「ごめんごめん」
彼が戻って来た。手にはなにか筒のようなものが握られている。
「はい、これ」
彼はその筒を僕に手渡した。よく見るとそれは、きれいに色どりされた空き缶だった。なぜこんなものを渡されたのか分からず、要領の得ない顔をしていると、彼は笑いながら説明を付け加える。
「今日、提出日だったんでしょ」
図工のことを言っているのだろうか。急になにかあついものが、胸の奥をよぎるのを感じた。僕は下唇を噛んで、うつむき加減にちらりと彼を見た。楽しそうに笑っている。少しほっとした半面、一層胸が苦しくなった。
家の中から声がした。彼のことを呼んでいるようだ。
「ごめん、もう行かなきゃ」
「忙しいの」
気がついたら彼を引き止めていた。辛くなるだけなのに、なにがしたいのだろう。
「うん、ごめんね」
彼は笑顔を少しだけ曇らせて、家の中へ戻ろうとした。
「いつ学校へ戻ってくるの」
自分はなにを言っているのだろう。去り際の彼に大声をかけている僕自身を、いやに冷静に観察している自分がいた。口をついて出た一言。自分でもなにを言っているのか分からない。なんだか頭がくらくらする。彼は、後ろを向いたまましばらく考えて、そして言った。
「分からない。でも、もしかしたら、戻れないかも」
それだけ残すと、彼はこちらを振り向いて、屈託のない、思い切りの笑顔で手を振った。そしてすぐに家の中へと入っていってしまった。
せみの声が、聞こえなくなった。
その日の晩は、なぜだかさっぱり寝つけなかった。彼が最後に言った言葉。なんとなく気になって、目が冴えてしまったのだ。手持ちぶたさに本を読んだり、薄暗い部屋をうろうろしているときに、ふと彼の託した空き缶が目に入った。手に取っていろいろと観察してみるが、見れば見るほどなんの変哲もない空き缶だ。確かに表面こそきれいに色が塗られているが、それ以上でもそれ以下でもない。これを作るだけなのに、あんなことをする必要は果たしてあったのだろうか。そもそもなんのためにあんなことをしたのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなっていく。凝り固まった僕を置いて、夜は更けていった。
翌朝、母の大声に起こされて目が覚めた。母は妙につんつんしている。目をこすりながら時計を見て、ありえない光景に数秒理解に苦しむ。
「今日は学校は休みなの?」
母の怒り声を聞いて、ようやく事態を飲み込んで跳び起きて大急ぎで支度をしてそのまま朝食も摂らずに家を出てそして走りに走った。息切れしながら教室に入ると、朝の会がすでに始まっていた。なぜかみんなうつむいていて、元気もなく笑顔もなく、いやに神妙な雰囲気だった。
「なにかあったの?」
小声で隣の席の友達にいきさつを聞いた。でも、返ってきたのは信じられない言葉。
「たっくんが、引っ越す」
一体なにを言っているのだろう。頭が真っ白になって、なにがどうなっているのか、うまく考えられない。引っ越し? 引っ越し。頭が同じところでぐるぐる回る。なにも考えられず、気がついたら一時間目が始まっていた。
慌てて教科書を机の上に出して、授業を聞こうとする。でも、彼のことが気になってどうにもならなかった。彼は僕らのことを避けていたのだろうか。どうしようもなく不安な気持ちになる。ずっと学校を休んで、突然引っ越しをして、最後まで顔も合わせずに。こうなったのもやはり僕らのせいなのか。胸の辺りが気持ち悪い。楽になるまで休んでいよう。そう思い、しばらくの間机に突っ伏していた。
「おい」
声が聞こえる。顔を上げると、目の前に先生がいた。
「どうした、具合でも悪いのか」
大丈夫です、と小声で答えると、先生は机の上に目をやる。
「これはなんだ?」
そう言って先生が手にしたのは、彼の空き缶。
「ああ……えっと、たっくんの――」
教室の空気がひやりと重くなるのを感じた。
「この空き缶が、か?」
「よく分からないけど、多分図工の作品だと思います。昨日渡されて」
そこまで言ったところで、先生があいづちをうって空き缶をしばらく眺めた。そして、少し判断しかねる顔で、
「まあ、一応作品台に飾っておくか」
そう言って教室の後ろの棚の上を見る。たからものが並んでいた。
昼休みになって、みんなで作品棚を眺めていた。いろいろなたからものが並んでいたが、もっぱらみんなの注意をひいていたのは、やはり彼の空き缶だった。
「どう見ても、空き缶、だよなあ」
誰かがこぼす。なぜこれがたからものなのか。どういうことなのかさっぱり分からない、といった表情で、みんな空き缶を見つめていた。そのうち、誰かが空き缶を手に取った。色んな角度から眺めてみようとしたのだろう、しきりに首を傾げながら、缶を回す。そのとき。
しゃらり。
不思議な音がした。
中になにか入っているのだろうか。缶を逆さにして振ってみるが、しゃらしゃらと音がするだけでなにも落ちてはこない。口をへの字に曲げた友達が、缶の飲み口から中を覗いてみた。
「――あ」
友達は短く声を出したきり、なにも言わなくなってしまった。ただひたすらに、缶の中を覗き込んでいる。みんなが飲み込めない顔をしていると、やがて彼は缶を下ろし、そしてなにも言わずに僕に手渡した。僕は彼のやったのと同じようにして、上を向いて缶の飲み口を目にあてる。
「――あっ」
思わず声が出てしまった。でも、無理もなかった。目の前に広がっている、なんとも不思議な光景。色とりどりの石が終わらない模様を作り出し、しかもその模様は、缶を動かすごとに違ったものになる。
万華鏡だった。
しかも、それだけでは終わらない。きれいな模様とともに、なにかが見え隠れしている。見たことのあるそれは、似顔絵だった。鏡になっている万華鏡の内壁、おそらく金づちで空き缶を叩いていたのはこれを作るためだったのだろう。そこには彼の描いたみんなの似顔絵が、行儀よく並んでいた。
そして似顔絵の一番下、万華鏡の角度をかなり急にしないと見えない辺り。そこに、彼のメッセージが、添えられていた。
「たっくんの引っ越しが決まったのって、いつなんですか?」
僕らは夏の道を走りながら、先ほどまでのことを思い出していた。
あのあと僕らは先生のところへ行き、一斉に同じ質問をした。先生が初めて引っ越しのことを知らされたのは、先月の頭。たからものを作り始める、少し前のことだった。それ以来、直前まで黙っていてくれと頼まれていたらしい。
彼は、たっくんは僕らのことを避けていたのではなかった。嫌っていたのではなかったのだ。笑顔がなかったのも、学校を休むようになったのも、むしろ別れが辛いから――
先生は事情を知ると、トラックがたっくんの家を出る時間も教えてくれた。午後一時半。授業がある時間だった。がっくりと肩を落とす僕らに、先生は、
「……そういえば、時間割変更があるのを忘れていた。五・六時間目は、学活だ。でも、やることがないんだよなあ」
とても楽しそうな顔で、僕らをちらりと見る。
「外にでも、出るか」
あと少しでたっくんの家に着く。間に合えばいいが。いや、なんとしてでも間に合わせる。僕は、万華鏡に刻まれたたっくんのメッセージを思い出していた。
――みんな、もうあえなくなるけど、とてもたのしかった。ありがとう――
たっくんの家が見えた。もうすでに積み荷は終わったようで、たっくんはトラックに乗り込もうとしている。せめて、お別れが言いたかった。ほんの少しだけでいい。話が、したかった。
「たっくん!」
力いっぱいに叫んだ。
でも、
「たっくん!」
たっくんはこちらを見ずに、
「たっくん!」
トラックへ乗り込んで、
「たっくん!」
エンジンが大きな音をたて、
「たっくん!」
タイヤはゆっくりと回っていき、
「たっくん!」
窓から顔を出して、ようやくふりむいてくれたたっくんの目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれていて、それでもたっくんはいつものしわくちゃな笑顔で、
「――ありがとう!」
気付けばみんな泣いていて、
気遣うようにせみの声が響いて、
トラックはもう行ってしまって、
ここからはもう見えなくなって、
それでも僕らはずっと、
たっくんがいる方に、
手をふり続けていた。
うだるような暑さ、せみの声。歪んだ空気、空の色。夏はもう、すぐそこまで来ている。
梅雨明けのきびしい日差しが万華鏡に閉じ込められて、あちらこちらにぶつかって、そうしては跳ね返り、きらきらと輝き、そして輝かせていた。輝いていたのは、友達。
みんなの、たからもの。