ある日、おじいさんは夢を見ました。その夢には、入口はありましたが、出口はありませんでした。おじいさんはその入口のドアを二、三回叩きましたが、しばらくたっても返事が来ないので、少しだけ考えてから、ドアをゆっくりと開けてみました。ドアの向こう側は真っ黒で、しかし真っ白な光がところどころ、まるでお星様のようにまたたいています。その、きれいですが少し悲しげな風景を、おじいさんは楽しげに見つめていましたが、そのまゆ毛は少しハの字になっていました。
ドアの向こうへ行ってみよう。おじいさんは心の中でそうつぶやくと、いつの間にかドアのしきりをまたいでいました。そうして二、三歩足を進めたとき、おじいさんは、自分の体がゆっくりと落ちていることに、気がついたのです。まるでひらひらと舞い落ちる花びらのように、大変ゆっくりとですが、白い星空の中へと吸い込まれていきました。そしてそのときおじいさんは、先ほどまではつねってみると痛かったほっぺたが、今はもう痛くないことに気がつきました。ふと後ろの方を振り返ってみても、そこにはドアもなにもなく、ただ白い光だけが小さく淋しくまたたいているだけだったのです。その夢には、入口はありましたが、出口はありませんでした。
気がつくと、真っ白な光はおじいさんのはるか上の方にしかありませんでした。ゆっくりと沈んでいく体が、まるでふかふかのベッドに体を任せるように気持ちよかったので、おじいさんはうとうとしていくうちに、いつの間にか眠ってしまっていたのです。おじいさんは体をおこすと、あたりを見渡してみました。しかし、そこにはなにも見えない、真っ黒な空間が広がるだけでした。先ほどまで目を楽しませてくれていた、白いお星様も、今はどこにも見あたりません。あるのは重く息苦しい暗闇と、うるさいほど静かな静寂だけ。一面に広がる暗さや静けさに、いっそ飲み込まれてしまいそうに感じたおじいさんは、不安げな顔で目を閉じました。
「やい、じいさんやい」
ふと、声がしたような気がしました。おじいさんはあわててあたりを見渡しますが、もちろんこんなところに誰もいるはずがありません。おじいさんは、疲れているのかなと思い、帽子を顔の上にのせてもう一眠りしようとしました。横になって、帽子に手をかけた瞬間――
クルッポー、クルッポー。
帽子から一羽のハトが飛び出してきたのです。そのハトは甲高い鳴き声を上げながら、一目散に上へと飛び去っていきました。あぜんとしているおじいさんを尻目に、さらに何十匹、何百匹ものハトが、立て続けに空へと舞い――おじいさんの足下に、ペチャリと音をたてて、何かを落としていきました。それは真っ白で、まるで花びらのようにも見えます。おじいさんはそれをしばらく見つめたあと、上の方に目をやりました。
そこは真っ黒で、しかし真っ白な花びらがところどころ、ちかちかとまたたいていて、それはまるで星空のようです。おじいさんは、ゆっくりと帽子をかぶりなおしました。
おじいさんが帽子をかぶりなおすと、またどこからか声が聞こえてきました。まだ声変わりもしていない、頬をだいだいに染めた元気な男の子のような声。それを聞いておじいさんは、ふたたびあたりを見渡します。白い何かが星のように輝いているほかに、そこにはなにもありません。おじいさんが首をかしげていると、
「やあ、ぼうしだよ」
と声がしました。おじいさんは驚いて目を上に向けますが、自分の前髪がちょろっと見えるだけでした。おじいさんが困っているのを感じてか、声は、
「いいから、帽子をもう一度とってみてよ」
と言うのです。言われるとおりにおじいさんが帽子をとると、今度は帽子の中からふわふわと、白い風船が出てきました。
「ひもをつかんで」
帽子の言葉に、おじいさんは素直に風船のひもをにぎります。するとどうでしょう、風船はふわふわおじいさんを連れて、上へ上へとのぼっていくではないですか。おじいさんは最初驚いた様子で風船を見つめていましたが、しばらくすると慣れてきて、楽しそうにあたりを見渡すようになりました。ふわふわ浮かんでいくおじいさんのまわりでは、白いお星様たちがちかちか、ついては消え、消えてはつきを繰り返し、おじいさんを見送り下の方へと遠ざかっていきます。もう一度上の方に目を戻すと、また新しいお星様がちかちか。そうこうするうちに、おじいさんは暗闇の中に、少しだけ色の違う黒を見つけました。その黒のまわりにはお星様のすがたもなく、ただその黒だけが広がっています。おじいさんが片手をその黒にのばしてみると、なんと触ることができたのです。
「足場になってるみたいだね」
そう帽子が言うと、おじいさんもうなずいて、その黒に足をのせて風船から手を離します。はたしてふわふわと風船は飛んでいき、おじいさんは黒の上に、すとんと立つことができました。おじいさんは不思議そうに黒の上をすたすたと歩き回り、その黒の続く先を目で追いました。じっくり見ないと分かりませんでしたが、黒はどこかとても遠くまで、細い道となって続いているようでした。次におじいさんは今までいた星空の方をふり返ります。やはり白いお星様がちかちかと、賑やかに微笑んでいて、そのはるか上の方には、ふわふわとのぼり続ける白い風船がありました。しかし、お空の終点までたどり着いてしまったのでしょうか、やがて風船はぴたりと止まり、きれいな星空の中に白いまん丸が釘付けになったのです。それはまるで、きれいなお月様のようでした。
しばらく黒い小道に腰掛けて、おじいさんと帽子はお月見をしていました。まん丸いお月様とたくさんのお星様が、やわらかく二人を照らしていました。しかしどうしたことでしょうか、しばらく眺めているうちに、お星様が少しずつ消えていくのです。
「朝が近づいてるんだ」
帽子は言いました。朝になってしまわないうちに、先を急ごう。帽子がそう続けたので、おじいさんは立ち上がって、帽子をいったん頭に戻し、おじぎをしてお月様にお別れをしました。帽子も、さいなら、と言ってお別れをしました。二人は小道の続く方をふり返り、ゆっくりと進んでいきます。
どのくらい歩いたのでしょうか、もうあたりに白いお星様は見あたりません。上を見ても、お月様のすがたもありません。小道の黒とは少しだけ違う黒が、あたり一面に広がるだけです。
「このへんでいいかな」
帽子が言いました。お月様とのお別れから、ずっと帽子をかぶっていたので、おじいさんは帽子の話を聞くのに、目を上に向けました。おじいさんの前髪が、ちょろっと見えました。
「もいちど僕をとってよ」
おじいさんは言われるとおり、帽子をとって自分の胸の前まで持ってきました。すると、何かきれいな光が帽子の中から上へと飛び出していて、真っ暗な中に一本の柱を作っています。柱の色はきらきらと変わり、暖かく、どこか懐かしい光をはなっています。おじいさんはため息をもらし、しばらくそれに見とれていました。
「すごいでしょ。今度は横にしてごらん」
そう帽子が言うので、今まで上に向けていた帽子を、横向きに倒してみました。すると、今まで上へ上へとどこまでものびていた光の柱が、小道の脇に壁でもあったのでしょうか、そこへぶつかって光の絵を映し出したのです。しかも柱の色がきらきらと変わるものですから、光の絵もきらきらと変わっていきます。おじいさんがよくよくその絵をのぞき込むと、そこにはかわいらしい赤ん坊が描かれていました。笑顔の大人たちにかこまれて、すやすやと眠っています。おじいさんはその絵を見てとても驚きました。なぜなら、赤ん坊のまわりにいた大人たちのことを、おじいさんはとてもよく知っていたからなのです。
「そのとおり、おじいさんのとても小さな頃だよ」
しばらくの間おじいさんがなにもしゃべれないと感じたのか、帽子はそのまま答えを口にしました。おじいさんは息を飲み込みながら、ゆっくりとうなずき、光の絵に見いっていました。絵の中では、おじいさんのお父さんやおじいさん、おばあさんにかこまれながら、おじいさんのお母さんの腕の中で、赤ん坊のおじいさんが、すやすやと眠っていました。
帽子を一度上向きに戻して、またしばらく歩いていると、柱の色が大きく変わりました。そこでおじいさんは、ふたたび帽子を横向きにし、小道の脇にある壁に、光の絵を映してみました。今度は赤ん坊ではなく、小さな男の子たちが野原をかけまわっている絵でした。おじいさんはそれを見て、ひとりうんうんとうなずいています。その表情は、とても優しげで、懐かしげなものでした。絵の中では、小さな頃のおじいさんが、友達と野原で追いかけっこをしていました。
また柱の色が変わりました。光の絵を写してみると、今度は古びた学校のようなものが描かれていました。小さな木の机に子供が並んで座っています。ひとりの男の子がノートに落書きをしていると、すかさず先生がやってきて、その子を怒鳴りつけました。まわりはみんな笑っています。その子だけしゅんとなって、授業がふたたび始まります。おじいさんはその光景を、苦笑いしながら眺めていました。絵の中では子供の頃のおじいさんが、ノートに落書きをして怒られていました。
次の絵は大学受験でした。りりしく成長した、でも少しあどけなさの残るおじいさんが、自分の番号を不安げに探していました。おじいさんは優しい笑顔で、番号が見つかるまで昔の自分を見守っていました。その次の絵は就職直後でした。スーツを着た若々しいおじいさんが、緊張でかちかちになって失敗を繰り返していました。おじいさんは困ったような表情で、心配そうに昔の自分を見つめていました。その次の絵は結婚でした。着慣れないタキシードをまとった立派なおじいさんが、唇をかみしめながら、花嫁といっしょに赤いじゅうたんの上を歩いていました。おじいさんは目頭を細くさせながら、昔の自分を見届けていました。その次の絵は戦争でした。ぱりっとした軍服に身をつつんだたくましいおじいさんが、鉄砲を大事そうにかつぎながら行進をしていました。おじいさんは神妙な顔つきで、昔の自分を眺めていました。
出産の絵もありました。今度はおじいさんが赤ん坊のまわりに立って、顔をくしゃくしゃにしながら子供の誕生を喜んでいました。子供と遊ぶ絵もありました。かわいらしい子供といっしょに、笑いを絶やすことなくキャッチボールを楽しんでいました。子供の結婚の絵もありました。大きくなった子供を赤いじゅうたんまで連れて行き、涙を流していました。子供の出征の絵もありました。敬礼する息子を見つめ、歯を強く食いしばりながら、敬礼を返していました。子供の出産の絵もありました。また赤ん坊のまわりに立って、顔中にしわを作りながら、子供といっしょに孫の誕生を喜んでいました。どの絵のときも、おじいさんは優しげな顔で、やわらかくうなずきながら光の絵に見いっていました。
妻との別れも見つめました。長年つれそった妻が、ベッドに横たわっていました。その顔はしわだらけで、頭は真っ白で、ふるえる唇で、声にならない声で、おじいさんを見つめながら、愛している、とささやいて、目を閉じました。絵の中のおじいさんもゆっくり、目を閉じて、ぽろぽろと涙を流しました。その絵を見て、おじいさんはやはり、ぽろぽろと涙を流していました。
そして、どれほどの時間がたったのでしょう。
「もうそろそろ、朝が来るんだ」
ほとんどの絵を見終わった頃、帽子が言いました。
「この先は、この小道は行き止まりになってる。おじいさんの人生がそこまでだから」
確かに帽子の言うとおり、しばらく進むと光の柱は消え、それ以上前に歩こうとしても不思議と同じところを足踏みするしかできなくなっていました。
「この世界は夢だから、もうじき覚めなきゃいけない。でも、覚めるための出口が、この夢にはないんだ」
おじいさんは、少しだけ困った顔をしましたが、あわてるでもなく、ゆっくりと帽子の次の言葉を待っていました。しかし、
「だけど、入口ならある。僕が入口だ」
待っていた帽子の言葉がこれでは、さすがのおじいさんも首をかしげて困ってしまいます。おじいさんは、難しいクロスワードパズルでも解いているかのような気分になりましたが、きっともう少し帽子の言葉を聞けば分かるだろうと考え、そのまま黙っていることにしました。帽子は、続けます。
「今まで見てきた光の絵、あの絵一つ一つが入口なんだ。好きな絵のところまで戻って、光の柱の中に、帽子の中に飛び込めば、そのころに戻れる」
ようやくおじいさんは、一度深くうなずきました。夢から覚めるには、自分の好きな頃に戻って、帽子の中に飛び込めばよかったのです。
「おじいさんは、長い間僕を使ってくれた。だからそのお返しさ」
帽子は言います。確かに、思い出してみれば今までのすべての絵の中に、帽子がいました。おじいさんのおじいさんからもらった、大切な帽子だったのです。おじいさんは小さな頃から、どこへ行くにもその帽子をかぶっていました。帽子は、いつもおじいさんを見守っていました。
「どの頃がいい、いつでもいいよ」
帽子が問いかけます。しかし――
おじいさんは首を横にふりました。そして、ゆっくりと口を開きました。夢の中に来てから、始めてのことです。
「私はね、この夢がとても楽しかったんだ。それはね、次になにが起こるか、さっぱり分からなかったから」
おじいさんは帽子を両手で持ちながら、まるで子供に言い聞かせるように話します。
「もし私が昔に戻ってしまったら、次になにが起こるか、分かってしまう。それはいけない」
帽子はおとなしく、おじいさんの言うことに耳を傾けています。おじいさんはこうも言いました。私が欲しいのは、昨日じゃなく、明日だ、と。帽子はそれを聞いてしばらく黙り込んでいましたが、やがて、
「そうか、おじいさんがそう言うなら仕方ないね。ここが端っこ、ここが今。ここで僕に飛び込めば、今への入口」
おじいさんはにっこり笑って、一度だけ大きくうなずくと、ゆっくり帽子の中へと入っていきました。もう入口に入ってしまったからには、夢の中には戻れません。二度と帽子とお話しすることもないでしょう。おじいさんは、少しだけ淋しく思って、後ろをふり返ってみました。遠くの方から、さいなら、という声が聞こえたような気がしました。
どのくらい眠っていたのでしょうか、だいぶん肌寒くなってきたようです。庭のハンモックでお昼寝していたおじいさんが体をおこすと、顔の上から帽子が落ちました。大切な大切な、おじいさんのおじいさんからの贈り物でした。