まるで私の中のもやもやが、
「コチラニアル影デスガ――」
冷たく光るモノクロ写真に、
「率直ニ――申シ上ゲマスト」
一つ残らず吸われたようで、
「――ヲ併発シテオリマシテ」
ある意味、清々しくもあり、
「――――」
そして、
「……気持ち悪い」
「――え?」
医者が驚いた表情を患者に向ける。我に返ると、患者は、
「え……あ、いや。何でもありません」
取り繕ったような笑みを見せる。閉めきられた診察室内で水色のカーテンが軽くゆらめく。
「それで、結局私は」
白衣の男はこわばらせた顔で、真剣な眼差しをそらすことなく、諭すようになだめるように、
「申し上げました通り、
そうですか、とだけ彼が言う。青色の診察室はひんやりと冷え、カーテンは鉛へと変わった。
325病室。二人部屋らしく、既に先客のネームプレートが貼られている。その下に、澤田弘介――彼の名前が加えられた。明朝体で無機質に印字された自分を見て、弘介は何かを思い起こしているようだった。
「単なる風邪だと思ったんだけどな」
昨晩の夕食のテーブルには鯖が三匹並んでいる。いい具合に焼き目のついたそれらは、一匹だけ箸がつけられていなかった。
「どうも違ったらしい」
向かいに座っている妻――早苗の箸がとまる。顔を上げると、弘介がビールを片手にテレビを眺めていた。
「検診?」
早苗が聞き返すと、一杯あおってから、弘介はうなずいた。声はない。
「精密検査でね、だめだったらしい」
箸と陶器があたる音がいやにうるさく響いている。
「だめって?」
早苗が恐る恐る尋ねる。弘介はというと、何食わぬ顔で茶碗に手をのばしながら、しかし若干含んだ表情で、
「肺だよ。癌だって」
テレビから笑い声。行き場のない音は、食卓の真ん中でひどく乾いた。箸の音は、一つ。
「――由紀子は?」
無傷の鯖を見て尋ねる弘介の口調は、いかにも平然としていた。
「今日は予備校で遅いって」
「そうか――この鯖、いやに辛いな」
早苗は顔をしかめている。弘介も、鯖の塩辛さに顔をしかめた。
病室に人はいなかった。とりあえずベッドに腰掛け、辺りを見渡す。ベッドがあって、棚があって、テレビがあって、そして窓――さすがにこの高さまでそびえ立つ木もないようで、青や緑を映す窓はどこにもありはしなかった。ただ板ガラスの中で、向かいの病棟の白壁が際限なく続いているだけだった。隣人のベッドには雑誌が数冊散らかしてある。本が友達とでも言わんばかりに取り揃えられた、クロスワードなりイラストロジックなりのパズル雑誌。その中に混じって一冊、海外の雑誌があった。表紙に踊る英字の群れ。そんなきらびやかな記号の集まりを見ても、それが何を意味しているのか、弘介にはさっぱり見当がつかないらしく、肩をすくめながら目をそらした。
ベッドに腰を下ろして物思いにふける間に、窓向こうの白い壁が朱みを帯びてくる。壁はわずかにでこぼこになっているらしく、夕日の朱がぶつかってははね返り、あちらこちらでかすかに輝いている。刻一刻と変わる文字通りの「光景」は、退屈な夕暮れ時にあってなかなか飽きるものではない。とはいえ、秋もかなり深くなってきたのだろう。まだ四時だというのに朱い光はぼんやりと薄れていき、白い壁はどんよりとかげっていく。白がにび色に変わる頃、不意に病室のドアがすっと開いた。
「やあ、はじめまして。澤田さんでしたか」
そう言って壮年の男性が、手をすりながら入ってきた。寝巻に薄手のコートを羽織り、
「いやあ、すっかり寒くなりましたね。食事まで散歩していようと思ったんですが、どうにも」
かじかんだ手に二、三度息を吹きかけてから、腋の紙袋を手にした。かさかさという音が静かな病室内にあって少し心地よい。男は弘介の手を
「これ、よかったらどうぞ。お近づきのしるしに」
「え、あ、どうも」
突然手渡された贈り物にとまどいを見せながらも、彼の顔に目をやった。彼は人のよさそうな笑みを浮かべながら、開けてくださいとばかりに手で促している。弘介も固くはあるが微笑を浮かべてうなずき、袋の口に手をかけた。
折り紙。
「部屋に戻ろうとしたら、ネームプレートが増えているのに気がつきましてね。入院中は退屈ですから、せめて手でも動かせたら、と思いまして」
そう言うと彼はもう一つの袋、おそらくは自分用のものを開けることなく棚の上に置き、自分のベッドに腰掛ける。弘介は、ビニール袋に収められた色とりどりの折り紙を見ては彼の方に目をやり、そしてまた視線を戻すことを繰り返していた。
「あの、えっと」
言葉につまっている弘介を見て、彼ははたと気付いた様子で息を飲み込み、そして申し訳なさそうに、
「そういえば、まだ名乗ってませんでしたね。これはすみませんで……」
はにかみながらそう口ごもる。弘介も少し顔をほころばせて、軽く首を振った。
「岡部勝久といいます。どのくらいの付き合いになるかは分かりませんが、よろしくお願いしますね」
目を真っ直ぐ見て話す、彼の誠実そうな態度もあってか、言い終わる頃には弘介の表情も大分柔らかくなっていた。弘介も岡部に自己紹介をして、
「すいません、いきなりこんなものもらっちゃって。何か、悪いですね」
しかし、岡部は満面の笑みで首を横に振る。夕日が向かいの白壁に反射して、薄暗い病室を柔らかく照らした。
「勉強、がんばってるな」
由紀子のもの以外は片付けられた食卓で二人きり、弘介が口を開いた。
「どうしたの、急に」
由紀子は
「予備校はどうだ」
「別に」
取り合う気もなさ気に、由紀子はテレビのリモコンを手にした。目当てのドラマが始まる頃らしい。
「予備校でも友達はできたか」
「知らない」
塀が相手のむなしいキャッチボール。コマーシャルが明け、ドラマの主題歌が流れ出した。由紀子の意識はいっそうテレビに向けられる。
「由紀子、父さんな」
「静かにして」
遮るように塀がそびえる。キャッチボールが徒労に感じたのか、あるいはそうでないにせよ、
「そうか、そうだよな」
伏せ目がちに一人こぼす。
「由紀子ももう大人なんだし、一人でもやっていけるよな」
一言一言に一人納得していくように、ゆっくりとうなずきながら言った。
「何なの一体。てかウザいんだけど」
主題歌が終わり、再びテレビはコマーシャルを映し出す。由紀子はテレビから気を削がれることが気にくわないらしい。
「ごめんな。でも、父さんいなくなっても、ちゃんと勉強できるもんな」
「は? え、何よいきなり」
由紀子が初めて弘介を見つめた。弘介はしばらく考えるように目を伏せ、目線を戻す拍子にあまり手のつけられていない鯖を見て、
「うん。父さん、癌なんだけどな、その鯖、温めた方がよくないか」
三秒間。由紀子はおそらく、息をしていない。二、三度、瞬きをするだけだった。
「娘さんですか?」
庭先に写る制服姿の女子高生と、ぼんやりとそれを眺める弘介との間に、不意に人懐こい笑顔が差し込まれた。弘介は一瞬驚いた顔をするが、すぐに軽く笑って、
「ええ、由紀子っていうんですけどね」
だらしなく目許を緩める。かわいいでしょう、自慢の娘なんです、とでも言いたげに、小さく切り抜かれた写真を見つめている。
「高校生ですか?」
「ええ。今年受験なんですよ」
それを聞いて、岡部は顔をわずかに曇らせる。
「じゃあ大変でしょう。こんな時期に入院だと」
気の毒そうに言うが、弘介の顔はほとんど変わることなく、
「いえ、大丈夫ですよ。こいつは特にどうとも思ってないでしょうし」
笑顔のまま財布に写真をしまった。なおも幸せそうなその顔を見て、岡部は口を歪ませる。二つの空気が混ざることなく漂っていた。
それからどのくらいか。岡部は居場所がないといった感じで、ひっそりとイラストロジックを解いている。時折同室者の様子をちらりとうかがうが、当の弘介はというと、こちらは特にすることがないといった具合に黙々と折り紙に興じている。かぎ型に折ったものを四つ合わせて、手裏剣にしたり風車にしたりして楽しんでいる。しかししばらくすると、ぴたりと手をとめて上を向いた。
内壁と変わらない象牙色の天井も、カーテンが通るレールが敷かれている分、壁よりかは賑やかに見える。弘介はしばらくそのレールの動きを目で追っていたが、やがて思い出したように口を開く。
「テレビ、いいですか」
首を戻し、岡部の方を見た。突然破られた沈黙に岡部は多少面食らったようだが、すぐに笑みを作って、
「ええ。どうぞ」
弘介はそれを聞いて、軽く一礼してからリモコンに手をのばす。
「今の時間というと、ドラマですか」
「ええ。娘が見てるもんですから」
聞き慣れたノイズ音を伴って、ブラウン管はにわかに色を持つ。飲料水、自動車、保険商品――色とりどりのコマーシャルの合間に、番組宣伝の短い映像が差し込まれる。あと数分で放送らしい。人気俳優の顔が画面右寄りに映り、右目からだけ涙が流れる。左側の余白に、字幕でタイトルが表示されている。が、音はない。
「確か、映画にもなってるんですよね」
「ご存知でしたか」
うれしそうな顔で尋ねるが、岡部は苦笑して、
「いえ、これですよ」
テレビ雑誌を手に取り、見せた。
「ドラマはあまり見ないんですが、買った雑誌は全部見ないともったいないですし」
おどけた口調で付け加える。ようやくまとまりを取り戻してきた空気の中で、二人ともが苦笑した。
やがて本編が始まると、岡部はお気に入りのパズル雑誌を取り出し、
「さて」
ページを繰りながら、弘介に宛てた独り言を言う。
「それじゃあ邪魔しないようにパズルでも解くとしましょうか」
鉛筆を二、三度回し、筆先をつんつん、と問題文にあてた。
「見ないんですか?」
「ええ。ドラマはどうも苦手でしてね。何でだろうなあ、眠くなっちゃうんですよ」
そこまで言って一呼吸おき、弘介の方を向いてはにかむ。人が見ている分にはいいんですが、と付け足した。
救急車のサイレンがなった。二人とも窓に目をやるが、すぐに気付いて互いの顔を見る。苦笑し合う二人をよそに、画面の向こうで急患が運ばれていた。
「コウスケ、ねえ、死んじゃやだよ」
搬送する医者や看護婦に混ざって、若い女が髪を振り乱しながら、涙目になって患者の手を握りしめている。コウスケと呼ばれた患者は、既に意識がないらしく、女の必死の呼びかけに反応することもない。握りしめられた手がするりとほどける。患者は手術室へと入れられ、その扉が固く閉ざされた。
心電計の無機質な音が手術室内に響く。白い壁に機械の山。執刀医たちの衣服は青く、どの肌も青白い。青の空間の中で、患者の肌に刃物が入り、わずかな赤があらわれる。その赤は本当に小さなものだったが、やがて画面は赤に飲み込まれていった。
手術中。その赤いランプに照らされて、女は長椅子に腰掛けうなだれていた。うわ言のように、コウスケ、コウスケ、と繰り返す。彼女の手には写真が握られていた。彼女がコウスケの肩に抱きついている。写真にぽたぽたと、水滴がかかっていく。
ベッドの上に渡された細長い板。机がわりとなり、そこに昼食が配膳される。鶏肉のソテーにごぼうサラダ、ご飯にみそ汁。プラスチックの皿に盛られたそれらは、どこか学校給食のようにも思えた。付け合わせのアスパラガスをより分けて残す弘介に、岡部は思わず、
「コラッ、残さず食べろ」
弘介のぎょっとした顔が岡部を向く。その驚いた表情を見て、岡部自身も驚いたように、
「あ……」
言葉につまった。しばらく何も言えないでいる岡部を見て、やがて弘介は吹き出し、ごめんなさーい、とばかりに茶化す。やっと岡部の口からも笑い声が漏れた。
「すいません。いつもの癖で……」
目を泳がせ、照れ臭そうに口ごもる。
「息子さんですか?」
「いえ、生徒ですよ」
茶碗を片手に、弘介はわずかに身を乗りだした。
「先生をされてるんですか」
ええ、と答える岡部の顔は、まだ照れ臭そうではあったが、少し誇らしげでもあった。聞くと、小学校の英語教師らしい。なるほど納得したとばかりにうなずいて、弘介は部屋の隅にある棚に目をやった。岡部の雑誌が数冊、乱雑に積まれていた。
「最近は小学校でも英語を教えるんですね」
目線を戻しながら弘介が言った。岡部はやんわりと微笑むが、
「教えてなんかいませんよ」
と言ってのける。きょとんとする弘介をよそに、岡部は笑顔で続ける。
「あまり早いうちから英語を叩き込むのはどうかと思いましてね」
岡部は、まずは日本語だという。日本語が分からなければ英語も分からない、と。弘介はひとまず納得したようにうなずいたが、しかしまだ
「でも、それじゃあ学校や親御さんに怒られるんじゃ」
「いやいや、授業はしてますよ」
こともなげに答える岡部に、ますます弘介の顔は混乱に満ちていく。岡部はにこやかに続けた。
「私の授業は、子供たちと一緒に英語の歌を歌ったり、昔話を英語の紙芝居にして聞かせたり。意味なんか分からなくていいから、とりあえず英語に近づいてもらうことなんです」
そう微笑みながら言う岡部の姿は、自分の仕事に大きな誇りを感じているようだった。
小さいうちは、とりあえず英語に対してマイナスイメージさえ持たなければいい。英語を「教える」のは中学校からで十分だ、というのが岡部の考えらしい。そういう意味で、岡部は問題を解かせることはしないし、宿題も出さないらしい。
「へえ、おもしろそうですね」
「よかったらちょっとだけ授業しましょうか」
弘介の顔がぱあっと輝いた。いいんですか、と遠慮しては見るものの、子供のように好奇心に満ちた目がらんらんと輝いている。その瞳があまりに無垢だったためか、岡部はいたずら心を刺激されたと見えて、
「でもアスパラを残してるからだめですね」
今日はお預け、とまで言ったところで、弘介は心底悲しそうな顔をする。まるで子供のような反応に、岡部の顔ではいろいろな笑いが混ざり合い、くしゃりとつぶれた。
次の日。ドラマの日。
放送は既に終わり、画面はニュースに変わっていた。弘介はぼうっと画面を見つめたまま、動かない。
「もうこんな時間でしたか」
ニュースが始まっていることに気付き、岡部は眉間にしわを寄せて字幕を読み解こうとする。そのうちに眼鏡を手に取り、布で軽く拭ってからかけた。ああ、見えた見えた、と小さくつぶやく。
「何で死んじゃうかなあ」
うわの空に弘介がこぼして、岡部が振り向く。弘介はどこも見ていないといった具合で、口を半開きにして動かない。テレビの呼びかけにも反応一つきたさない。岡部も皆目話が見えないようで、ただいぶかしんだ、心配そうな目を弘介に投げるだけだった。
はあ、とため息を漏らす。漏らしながらも、弘介の目線は動くことなく、相変わらずどこも見ていない。そして、そのため息の数も尋常ではない。弘介がテレビを眺めてきかないのに気付き、あるいは、と思ったか、岡部が尋ねる。
「ドラマ、ですか?」
弘介の反応はどうやら、ない。岡部の表情はいっそういたたまれないものになり、息をつきながら天井を仰ぐ。と、
「ええ」
聞いて、眉をぴくりと動かし、弘介の方を見る。振り向くのも億劫なのか、弘介はテレビからわずかに目線を傾けているだけだった、が、返事はしていた。
「主人公ですか」
弘介は、ため息と返事とが混ざったような声で、ええ、と息を抜き、それ以上喉を動かさない。弘介の吐息の音と、空調の音だけが耳を塞いだ。
「ちょっと冷えてきましたね」
岡部は何とか空笑いし、エアコンの設定をいじろうと立ち上がる。カーテンがふわり、と揺れ、ちらりと窓ガラスが垣間見える。もうとっぷり暮れた黒い空を覆うように、二人分のため息が白く曇っていた。
「あれ、どうなってんだ、これ」
岡部が首を傾げながら、リモコンを手に戻ってくる。ボタンの数は少なく、それぞれの機能も丁寧に印字されていた。
「すいません、温度の下げ方がどうにも」
きまりの悪そうな顔でリモコンを差し出し、部屋を暖めるよう促す。弘介はしばらくぴくりともしなかったが、やがて首から上を動かさないままリモコンを受け取り、こともなげに室温を上げた。岡部は、どうも、と言ってリモコンを受け取り、もとあった場所へ返しに行く。エアコンがうなりをあげるが、温度は、そんなに急には上がらない。
「死んだって、本当に死んだんですか」
戻りながら尋ねる岡部。弘介の瞳がかすかに黒みを帯びた。
「最終回はまだなんでしょう」
ベッドに腰掛け、来週のことを言う。まだ一話残っているのに、やすやすと主役を殺すだろうか、だろう。ようやく岡部の方を向いた弘介の目は、大きく見開かれた黒色だった。
「まだ分かりませんよ」
そう言って岡部がにやりと笑う。弘介はそれをしばらく見つめていたが、しかしすぐに目を伏せ、つばを飲み込んでから、
「それまでずっと入院中で、今回の最後に、病室で死んだ……はずです」
「だったらなおさら」
岡部の言葉が、冷えた病室をやさしく照らす。弘介は小声で、助かりますかね、とつぶやいた。岡部の笑顔はいっそう温かく、
「きっと」
エアコンも少しはきいてきたようだった。
とはいえ弘介は前ほどは笑わなくなった。あれから三日が過ぎ、時折わずかに微笑んではみせるものの、それもはかなく今にも消えてしまいそうな、線の細いものでしかなかった。
「澤田弘介さん」
看護士が扉を開ける。まだ回診の時間ではないし、何の用かもよく分からない。弘介がきょとんとしていると、看護士は彼にだけ聞こえるように、この間の検査の結果が出ましたので、と耳打ちする。同じくきょとんとしている岡部に一礼してから、二人は病室をあとにした。
連れられた先には既に医者が座っていて、早苗と由紀子の姿もあった。医者は水色の封筒から書類を二、三枚取り出し、机の上に並べる。
「それでは、検査の結果をご報告致します」
そう言ってレントゲン写真やら何やらを、ぺたぺたと白いボードに貼っていく。その都度説明を加えていたが、三人ともよく分かっていないようで、いたずらに不安そうな面持ちをするほかなかった。医者は一通り説明を終えると、一息ついて、三人の顔を見据える。
「率直に申し上げます。弘介さんは、このまま放っておくと大変危険な状態です」
どよめいた。なぜ危険なのか、その説明は相変わらず分かりにくかったが、とにかく危険らしい。
「手術すれば治るんですか」
早苗が透き通った瞳で、すがるように問いかける。しかし、医者の顔は曇って、
「我々としても最善の努力はするつもりです。ただ」
逆説。その後に続いて、手術の難しさ、転移のしやすさなどが出た。そして最後に、再び最善の努力うんぬんが語られる。室内の空気はしかし、手術が必要であるという方向に傾いていくようだった。そうはいっても手術には本人の同意が不可欠――皆が弘介の顔を見る。しかし弘介は、ふんわりとした表情で一言、
「少し考えさせてください」
とだけ答える。弘介はそれっきり何も言わなくなり、家族はそれっきり何も言えなくなった。
四日後、金曜日、最終回。弘介は昼のうちから、色の灯らないままの画面ばかりを眺めている。時間が近づくにつれてそれまでのぼんやりと抜けきった顔から、かすかに期待を抱いた、それでいて大きな不安を抱いた、そんな顔つきへ次第に変わっていく。
トランプでもどうです。
月がきれいですよ。
時間が近づくにつれ、岡部は何かしらを弘介に勧めようとするが、弘介は表情一つ変えることなく、首一つ振ることもない。いえだのはあだの二文字であしらって、それ以上何もない。ただテレビに視線を注いで、まるで画面の黒に吸い込まれているようだった。
またあの映像が出た。もう何度目かの、片目からだけあふれる涙。しかし、今日のそれは、いつもと違った。今までは無表情のままに涙していたのに、今日の彼は、あまりに安らかな顔だった。
最後の主題歌が流れ始めた。その途端、弘介は首を突き出し、顔をこわばらせる。テレビに食いついているようで、かつ実のところテレビに呑み込まれているようでもあった。
静かな、薄暗い病室。コウスケだった亡きがらと、そばに座る彼女。ほかに人の姿はない。窓からは西日が差し込み、彼女の顔を照らしている。彼女の涙を照らしている。
「コウスケ……」
彼女の手が、冷たい肌に触れる。涙が一滴、コウスケの頬に落ちたが、それで生き返るというわけでもない。
「何で死んじゃうのよ……」
すすり泣きながらコウスケとの思い出を巡らす。映画にも行ったし、花火にも行った。けんかもしたけど、楽しい毎日だった。いつもそばにコウスケがいて、微笑んでいてくれた。今、そばにコウスケはいない。
考えるうちに、気がつけば自宅アパートまで来ていた。泣きはらした目で鍵を探し、鍵穴に入れようとして、留まる。合い鍵をコウスケに渡していた。何かあるとすぐ駆けつけてくれた。このドアを開けると、今もコウスケがいるような気がする。目を真っ赤にした自分を見て、何泣いてんだよ、と抱きしめてくれるような気さえする。そう思うとまた涙がこぼれてきて、うまく鍵穴に入らない。
「コウスケのばか……」
泣きながら鍵を回し続ける。
ずっと興味がないようなそぶりをしてきた岡部が、不意に席を立つ。目の奥が震えていた。弘介は相変わらず呑み込まれている。目尻から涙を流し、鼻をすすりながら、呑み込まれている。
部屋に入って、やはり誰もいるわけがなく、玄関先でしゃがみ込んだ。そのまま顔をおさえ、しかし声は抑えられず、大声で泣き続けた。
ふと背後で、かたん、という音がする。鼻をすすり、呼吸を乱しながら振り返った。ドアについた郵便受け。開けると、一通の手紙があった。差出人は、
「コウスケ……」
何も考えられない。ただ夢中で、ゆっくり封を切って、雑に折られた
――この手紙を読んでいる頃には――
今にも死にそうな状態で書いていたのだろう、汚い文字でつづられた思いのたけ。口元をおさえ、ぼたぼたと涙が便箋を濡らしていく。便箋を持つ手は震え、読みにくい文字がさらに読みにくくなる。
――ボクはもういないんじゃないかな――
二階の隅にあるトイレ。顔を真っ赤にした岡部の姿があった。肩を震わせ、弘介とは違う涙を流している。
轟音――。岡部の右拳は個室の壁にあった。白く塗られた壁板がへこんでいる。
何で……。
かすれた声で、何度も繰り返していた。
……んだよ。
くしゃくしゃな顔で、何度も何度も繰り返していた。
……何で死んじゃうんだよ!
――ボクが死んだあとも、キミはボクのことを思い続けやしないかな。心配です。そりゃ少しうれしいけど、でもやっぱり、ボクのことなんか忘れて、もっといっぱい恋をしてほしい。幸せになってほしい――
涙で文字がにじみ、ほとんど読めなくなっていたが、彼女は夢中で便箋をめくる。その度に涙がこぼれ、紙がくしゃくしゃになっていった。
――もうお別れなのはさみしいけど、もし天国があったら、ずっと見守っててあげるから、心配しないで。P.S.この間買った指輪、ずっと大事にします――
手紙を抱きしめ、肩を小刻みに震わせ、そしてひときわ大きく息を吸うと、また声を出して泣いた。
「こんなこと書いたら」
嗚咽と混ざって、何を言っているのかも聞き取りにくい。
「余計恋できなくなるじゃない」
泣き声はずっと続いた。
弘介はとめどなく画面から放たれる、輝きもなくまぶしい光を浴び続けていた。
病室には二人いた。父と、娘。二人のほかは、ただ沈黙しかいなかった。弘介はベッドの上で体を起こし、由紀子は傍の椅子に腰掛けている。窓の外では白い壁が、わずかなかげりを伴いながら、きらきらと輝いていた。
「受けないの」
ようやく一言、由紀子の口から押し出される。
「少し考えるって、もう一週間だよ。放ってたらもっと悪くなるし」
喉にこびりついたいがいがを、一つずつひとつずつ剥ぎ取っていくように。しかし弘介はただぼんやりと窓の外、白い光のざわめきを眺めているだけだった。
「ねえお父さん、聞いてるの――」
「なあ由紀子」
不意に弘介の言葉がかぶさり、由紀子はばつが悪そうに口をつむぐ。弘介はというとゆっくりと由紀子の方へと向き直り、ほのかに微笑みかけていた。
「おまえが毎週見てたドラマあったろ。あれ、父さんも見てたんだ」
いきなり話題が飛んで言葉につかえながらも、一応、そうなんだ、と相づちを打つ。
「この間最終回だったな。よかったよな」
父の言葉に何か言葉で返そうとするが、声が出ないのか、首を少しだけ傾けた曖昧な笑顔で由紀子は返す。笑みの方は無理にでも作っているのだろう、傾けた側に今にも雫がこぼれそうになっている。
「父さんもあんな風に死ねたらかっこいいのにな」
電源の入っていないテレビを見つめながら、そんなことをつぶやく弘介の笑顔は、きらきらと輝いてまるで子供のよう。由紀子はそんな父の顔を見て、目を背けるようにうつむいた。
「……む」
ん、と父が娘の方へと向き直る。顔を下に向けたまま、必死に笑顔を作って何かを言おうとしていた。声のない鳴咽のような不規則な呼吸が、病室を包み込む。由紀子は顎の震えを抑えるように、きっと歯を食いしばる。そして、
「……無理だよ、父さんもとがかっこよくないもん」
声を無理やり搾り出して軽口を叩く。その声は震え、裏返っていた。顔を上げ、懸命に笑いかける。父は声を上げて笑い、ひどいな、と軽口に応える。笑いが引いてくると、一旦呼吸を整えるように大きく息を吐いて、再び画面を見つめて弘介は続けた。
「でもあの死に方はいいよな。由紀子も見ただろ」
「やめてよ」
由紀子がぼそっとつぶやく。弘介が、え、と聞き返して、由紀子の顔を見た。うつむいた顔は真っ赤に染まり、全身が小刻みに震えている。目尻からは光の筋がおり、そして、
「やめてよ! そんなドラマ見てないよ。人が死ぬ話なんて」
ぴしり、とした空気が辺りを覆った。弘介の顔から笑みが消え、ほころんだ形だけが残る。由紀子はあまりに辛そうな表情で、弘介の顔も見れずに立ち尽くしていた。
「見てないのか。泣けるいい話なんだぞ」
「何言ってんのよ! ちっともよくないよ。何で人が死んで泣かなきゃなんないの!」
弘介が何とか取り繕っても、由紀子の爆発がすぐに消し去ってしまう。由紀子の声は既に涙まじりで、握られた拳がわなわなと震えていた。
「嫌だ。嫌だよ、人が死ぬのなんて。嫌だよ、お父さん死なないでよ!」
つぶやくように、叫ぶように、吐き捨てるように、言い聞かすように。声は震えていて、体も震えていて、そして部屋も震えていた。ぽろぽろと足元に雫がこぼれる。袖で目の辺りを拭って、そのまま走り去った。
バタン。と音がして、ドアが閉じられた。がらんどうの部屋に人間が一人、響き続けるドアの音の中に漂っていた。その目線はドアへ向き、その呆然とした表情は次第に崩れ、
「……分かんないんだよ……自分でも」
白いシーツにぽつぽつと斑点ができる。
「分かんない……ごめん。でも分かんないんだ……」
左手で顔を覆い、鳴咽まじりにひたすらに繰り返していた。
どれくらい経ったのだろう。窓の外は少しずつ朱みを帯びていき、光をはね返して輝く壁も少しずつ愁いをもっていく。壁の向こうには抜けるような秋空があるのだろう。しかしそれも見えない病室では、押さえ込まれた空気が行き場をなくし、部屋の隅で小さくなっている。
不意にドアの開く音がした。やさしく、気遣うようにゆっくりと開かれた。
「いやあ、すっかり寒くなりましたね」
手をすり合わせながら入ってくる岡部。こぜわしく動くその姿はどこかおかしげで、それまでの重い空気すら和らげていくようだった。。
「いやあ、散歩してて思い出したんですけどね」
そう言って岡部はコートを脱ぐ。その耳は既に白かった。
「授業」
それだけ言って弘介の顔を見つめる。憔悴しきった弘介と目を合わせてもなお、その顔は無邪気に笑っていた。
「してなかったでしょ、また今度って言って」
弘介はまだ合点のいかない顔をしていたが、やがて目を開いて、
「ああ、あのアスパラの」
素っ頓狂な声で素っ頓狂なことを言う弘介に、岡部は苦笑いしつつも、そうですよ、とやさしく答える。窓の外の色合いを確かめると、
「本当に簡単な授業ですけど、いいですか」
弘介は控えめな笑みを浮かべ、軽くうなずいた。
授業は多少大人向けに組まれていたとはいえ、ごく初歩的なもので、英語の知識がまったくなくても十分に楽しめるものだった。実際、弘介にその知識はなかったにもかかわらず、ずっと笑顔のまま授業に耳を傾けていた。岡部は英語の
白い壁が朱く染まり、そして青みが入ってきた頃、岡部は一息つき、こんなもんですかね、と言ってはにかんだ。恥ずかしそうではあったが、それ以上に誇らしげな、先生としての顔がそこにはあった。
「あ、そうだ」
岡部がふと思い出したように声を上げ、きょろきょろと辺りを見渡す。
「一つ言い忘れてたんですが」
捜し物が見つからなかったのか、困り顔で首を傾げる。
「何か書くもの、ありませんか」
聞かれて、弘介は天井を見上げる。しばらく考えて、思い当たる節がなかったのだろう、同じく首を傾げながら目線を机に戻して、そこには、折り紙があった。
「これじゃだめですか」
折り紙の裏は白く、メモ程度のものなら書けそうだった。二、三枚つまんで、岡部に見せる。
「大丈夫ですけど」
岡部は顎に手をあて、いいんですか、と問いかける。弘介が笑いながらうなずいたので、折り紙を受け取った。
「
まるで
「世界一長い英単語って、ご存知ですか」
首を横に振ると、岡部は歯を出してにかっと笑い、また準備にいそしむ。
「長いんですよ」
得意げに言いながらペンの蓋を開け、さらさらと筆を走らす。走らす。筆記体で書かれた一単語は、途切れることなくまだ続く。
pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis
実に45字からなる一単語。折り紙の左端から始まって、精一杯の小さな字でつづっていっても、右端いっぱいまで筆はのびていた。弘介は目を丸くし、呆れたように笑いながら、その意味を聞いた。
「あなたの身近な単語ですよ」
意地悪くそう笑って、答えを教えようとはしない。弘介は腕を組み、首をがくんと後ろに垂らして考えるが、どうにも出てこないようだ。とうとう困り果てた顔になって、
「降参です。教えてくださいよ」
岡部がしたり顔になり、ペン先を弘介に向けた。意味は、肺塵症――弘介の病名だった。
分かるわけないじゃないですか、とつぶやきながら後ろに倒れ、そのままふて寝しようとする。
「実は、偶然聞こえちゃいましてね」
岡部は、折り紙はそのまま、ペンを机に置いて、声を落として話し始める。
「手術、受けないんですか」
弘介は目を開けて、しかし体を起こすことはなく、ええ、とだけ言った。
「ドラマに憧れましたか」
まあ。その二文字だけ言って口が閉ざされる。
「でも、コウスケの彼女さん、悲しんでましたよね」
窓の外は既に色を失い、壁の輝きもなくなっている。ふと、ぽつぽつと窓に雨粒があたり始めた。
「それと変わらないんじゃないですか」
電気もついていない、薄暗い病室。雨音だけがいやに静かで、それがいやに耳に障った。岡部も弘介も、それ以上何も言わない。岡部はペン先を見つめ、弘介は天井を。自動的に電灯がつき、弘介の目尻がきらりと光った。
「そうだ。もう一つ」
ぱっと明るい声に戻って、岡部がペンを握り直す。弘介はそのまま動かず、聞き流しているのかも知れなかった。
「二番目に長い単語ってのもあるんですよ」
岡部はうれしそうに言って、折り紙に再びペンをやる。と、寝たままの弘介を見て、立ち上がって弘介を起こした。弘介は目をおさえ、眠いだけだ、とでもいうようなそぶりをする。岡部は気にすることなくベッドに戻り、再びペンを走らせながら、つぶやいた。
「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」
意味もさっぱり分からない、だがどことなく耳に心地よい、そんな言葉を聞きながら、弘介は折り紙に目をやる。
supercalifragilisticexpialidocious
34字。先程のものより短いことは一目で分かるが、それでもめまいがするほどに長い。
「どんな意味なんですか」
もう意味を考える気力もないのだろう。文字を見つめたまま、疲れを帯びた口調で尋ねた。
「意味ですか?」
にっこりと微笑んでから、岡部は言う。
「そんなのありませんよ」
弘介の顔が岡部を向く。何をぬけぬけと言っているのだろう。そんな顔で岡部を見つめるが、当の本人は表情一つ変えないまま、さらに続ける。
「というより、これは言葉でもありませんね」
いよいよ分からない、といった顔をするほかない。弘介は黙って、ただ次の言葉を待っていた。
「これは呪文です」
「呪文?」
あまりに常識はずれな答えに、つい聞き返してしまう。思い返してみれば、確かに呪文と言われるとそのようにも聞こえるかも知れないが、それでもやはり納得はいかないのだろう。うってかわって真剣な眼差しで、弘介は折り紙を見つめ、岡部を見つめた。
「魔法の呪文ですよ。呪文に意味はありません」
そう言うと岡部は、窓に目をやる。外はもう暗い。まだ遅いと言える時間でもないのだが、今日は雨が降っているし、そうでなくても秋の夕べはいつもこうだ。
「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。みんなの笑顔、そして元気を取り戻すための呪文」
岡部は向き直ると、弘介の目の奥をじっと見つめる。そして、
「あなたにも」
そして、雨は降りやんだ。
それからのことを弘介はあまり覚えていない。
公衆電話で由紀子と話し、手術を受けることにした、と伝え、電話を切って振り向くとそこはもう手術室。手術衣をまとった医者が、微笑みながら待っている。そこへ歩いていき――そんな気さえするほど、時間の流れは早かった。気がつけばリハビリも終わり、もとの病室に戻ることになって、その時ふと、愛すべき隣人のことを思い出した。
「最後に、さっき書いた一番長い英単語」
無邪気に英語を楽しむ声が、耳の奥に焼き付いている。
「あれより長い単語も、実はありましてね」
無邪気にペンを走らせる姿が、まぶたの裏に焼き付いている。
あれより長い単語だと、折り紙じゃはみ出ちゃうでしょう。
確かそんなことを言った記憶がある。しかし、記憶の中での彼は、心配ないですよ、とだけ言って、新しい折り紙にペンを走らせ、そしてすぐにそれをやめた。ペンを置き、にこにことしてこちらを見ている。そんな短時間でそれほど長い単語が書けるものだろうか。やはり折り紙には大きく、たった六文字、
smiles
とだけ書かれていた。
しかしそれは、最初と最後の s、その間に mile――長さ一マイルの英単語。
「smile、微笑む。これに三単現の s がついて、smiles。私が笑って、あなたが笑って、周りの人が笑って、これで、smiles です」
そう言いながら微笑んで、その折り紙を折り始めた。
「周りの人が笑ったら、肺塵症にだって勝てるんです。癌にだって勝てますよ」
彼の手元では、一羽の鶴が生まれていた。微笑みを浮かべて手渡し、
「娘さん、まだ泣いたままですよ」
弘介は病室の前まで来ていた。そっとドアに手をかける。そこにあったのは、前と変わらない光景。ベッドがあって、棚があって、テレビがあって、窓があって――しかし、彼の姿はない。
おそらく退院したのだろう。あるいは、病室が変わったのかも知れない。とりあえず、弘介はもといたベッドに腰掛け、備え付けの棚を見た。上に、一羽。鶴がいた。
スマイルズ。そう名付けられた鶴が、いつまでも弘介に微笑みかけていた。